神保町

無関心と好奇心の二重性についてのコペンハーゲン解釈

馬鹿げたグロテスクな儀式がパロディ(一体何の?)のやうに進行しつつ、よろづ意見を持つて表明しなければならないといふ民主主義の強迫観念が地獄の釜を開いた感がある。 この狂気の渦の中で正気でゐる為には無関心になる力は必須であり、「無関心力」みたいなタイトルの新書が求められよう。買はないけど。 まんじりともしない夜、無関心を欲してこの世と一切の因果関係の無い話題について考へようとする。 並行宇宙や量子のエンタングルメントや非存在の子供の笑顔や涙の形而上学や。 しかしすべてが因果の網に囚はれて昨日今日明日のヘドロの中に吸ひ込まれてしまふ。 何故なら此処は脳みその内側だから。 神経線維の束。その他はなにも存在しない単なるイリュージョンに過ぎない。だからといつてなんだらう。そんな程度のメタ認知で自分から逃れられるはずもなく。 それよりも、あの張り詰めた宇宙の突端部分で時間が消えた瞬間に向きあつたのは、全ての過去と未来と全空間に相対したのは誰(何)だつたのかを思ひ出さう。 自分自身を破壊する苦しみと引き換へに持ち帰つてきたものといへば 己=全=無 といふ三位