過去にとらわれないために

『人を好きになる(好かれる)のは簡単である。その人が未来を目を輝かせればよいだけだ。人を嫌いになる(嫌われる)のは簡単である。その人が過去に囚われ、そこから脱却できないときだ。』 この言葉は世界的に有名なナマケモノの親分の言葉です(笑) 人はなぜ過去に囚われやすいのでしょうか? これはホモ・サピエンスが進化の過程で獲得してきた能力なのだと言われています。 いつ猛獣に襲われたり、飢饉が発生したりして、命の危険に晒されることが日常だった古代においては、過去の経験から未来を予測し、その情報を他人と共有することが最も重要だったわけです。 その目に見えないもの、現実にはないものを、イメージとして相手に伝える能力こそがホモ・サピエンスが地球上にはびこることができた要因ではないかと考えられているわけです。 しかし、現代において戦争でもない限り、死というものが日常の体験の中にはほぼなくなっております。つまり、少なくとものこの日本において死とは縁遠い体験なんですね。 ですから、なかなか死なない。 しかし、環境が大きく変化した現代においても、まだまだヒトの脳

ナマケ時間は自分でつくれ! 計画編

妄想はまだまだ漠然としたイメージでしかない。 こういう漠然としたイメージだけでは、ほぼ実行に移すことはない。 なぜなら、そのイメージはあなたのモチベーションにはなりえないからだ。 単なる夢とさほど変わらないのだ。 見ただけで忘却のかなたへ去っていってしまうのだ。 で、大事なのが具体的にイメージしたものを、ノートに書き出すのです。 思いつくままに、「ああしたらいい!」「ここはこういう人が来るだろうから、こうしてみよう!」 とにかく乱雑でもいいから、思いつく限り書き出してみる。 頭の中で自分がその現場にいることを想像しつつ、細かなイメージを文字なり絵にしてみることだ。 そうすることで微に入り細に入り、あたかも現実を見ているかのようなイメージができあがってくる。 そして、そのあとは書き出したイメージやアイデアを分類分けしてみよう。 たとえば、お店を開業してみたいというイメージだったとしたら・・・ 1)店内の内装 2)店の外装 3)お客様について 4)客席について 5)作業について このように書き出したものを分類分けしてみよう。 もしかすると、1

ナマケ時間は自分で作れ 妄想する

「いいですねぇ」 「羨ましいです」 「私もやってみたいけど」 よく耳にする言葉です。 誰かと話していて、相手の行動に対してそう言うんですよね。 私はこの言葉を発する人に共通する、その後に続く言葉にいつもガッカリします。 それは何か! 「うーん、でも〜」 これです。 思わず心の中で「あぁ、面倒くさっ」って言いそうになるのをグッと堪えてます。 他には「やりたいと思って始めるんですが、長続きしないんですよね」とかね。 こういう人に決定的に欠けているのは、ズバリ!《妄想力》なんです。 どういうことかご説明しましょう。 自分がやりたいと思ったことや、誰かがやっていていいなぁと思ったこのを、実際に自分がやってみて自分がどうワクワクするのか?どう幸福感を感じるのか?、ということがちゃんと想像できていますか?ということなんです。 具体的に例を挙げてみましょう。 将来、カフェをやってみたいというAさん。 今日はお気に入りのカフェにやってきました。そこでオーナーと話す機会があり、「私もカフェをやりたいんですよね。」と言いました。 私がオーナーなら(実際そうなんですが

ナマケ時間は自分で作る ムリ!って言わない

自分のやりたいことをとことん書き出しなさいと言いましたが、多くの人はそれを書いてみてからこう口にします。 「でもなぁ、子供がいるからムリでしょ。」 「会社の仕事との両立は時間的にムリよ。」 「そんなこと言ったら、家族からなんて言われるか?」 「きっとご近所から変な目で見られるにちがいない」 「すごくアイデアはいいと思うけど、現実問題お金がないから」 これすべて『やらない理由』を言っています。 これを先に口にするわけです。 こうすることで「やらない自分」に言い訳をするんですね。どうせできっこないから、やらなくてもいいよ〜ってね。 でもね、やりたいことを書いたのになぜいきなりそんなことを口にしてしまうんでしょう。 「やりたかったんでしょ?」単純に私はそう思います。 おそらくですが、本当に本当に心底やりたいと思っていないんです! 失礼ながら、そんなことを言っているアナタは将来においても何一つやりたいことをやらずに済ませてしまう人生しか送れませんと断言いたします。 するとアナタはきっとこう言うでしょう。 「いや、現時点ではできないけど、将来はや

生きることに疲れてしまった人へ

これは我が息子の話である。 とある芸大で演劇を学んでいたのだが、昨年あたりから思うようにならない自分に苦しみをを感じ始め、今年度に入り次第に不登校になり、マンションの自室に閉じこもりがちになり、ついにはうつ状態になり通院を余儀なくされてしまった息子。 その話を聞いたときに、好きで選んだ道なのに、なぜ? 単純にそういう疑問が湧き上がってきた。 好きなことをしなさい!とは口癖のように彼に言っていた私だが、どうもそれだけでは足りないようだ。 彼に原因は何かと聞いてみた。 息子曰く、演劇に関して自分なりに努力を重ねてきたが、その努力の割には評価されなかったことが辛かったそうだ。 評価されない自分を責める日が続いたことで、いつのまにか自分はダメな人間だ!に変化していく。 心理学者アドラーは言う。 「悩みのほとんどは人間関係に由来する」と。 息子の場合はどうだろうか? 一見、彼自身の問題であるように見える。全てが自己完結してるのではないのか?そう考えてもおかしくはない。 しかし、先生に評価されないと言うことは、他人の評価に心奪われており、それが自己評価の低さ

ナマケ時間は自分で作る スケジュール管理について

自分の時間は自分の手の中にあると、前回書いた。 理由は簡単だ。 自分の時間は自分のものだからだ。 他人の時間を私たちはいきているわけではない。 だから、自分の時間を自由に使っていいのだ。 意外に思うかもしれないが、時間がない!と言っている人の中には、ここがわかっていない人が相当数いて、他人の時間に振り回されて疲弊してしまっているのだ。 では、ここで「自分を自由にするスケジュール管理」をご紹介しよう。 「6:4のルール」というのをご存知だろうか? これは[自分のやりたいこと]6割、[自分のやらなければならないこと]4割という意味である。 つまり、1日あるいは1週間あるいは1ヶ月あるいは1年のスケジュールのなかで、自分のやりたいことに割いてもいい時間が全体の6割、やらなければならないことが4割なので、1日換算ならやりたいこと14.4時間、やらなければならないことに9.6時間割くということになる。 ここで大事なのは、スケジュール管理するときに自分がやりたいことを先にスケジュール帳に書くなり、カレンダーアプリにインプットしてしまうのだ。 この1週間のスケ

組織と個人の境界線の話

隣の勝山市役所の女性職員が自分の娘と夫を殺してしまったというニュースが入ってきた。 現時点では全くその動機や方法など、情報として上がってきていない。 この女性職員は精神的な病気を患っており、現在休職中だったらしい。そこにこの事件との関係があるようには思えるが、これはあくまで推測の域を出ない。 そして明日(正確には本日)勝山市長が会見を開くことになるだろうということだ。 その会見はおそらく謝罪会見になるのではないか?と聞いている。 つまり、市の職員がしでかした不祥事だからだというのがその理由なのだが、そこにすごく違和感を感じざるを得ない。 事件を起こした職員が、少なくとも現在進行形で市の業務をこなし、市民との接触があったのならともかく、病気で休職中に起こった事件である。 写真はイメージ なのに、市長が謝罪するというのは、やはりおかしい気がする。 もちろん、これまでの慣例だから、というのでそうなるのだろうが。 日本の社会では組織と個人の境界線はかなり曖昧だ。契約社会ではないからかもしれない。未だ儒教的な思想がはびこっている日本の社会では、家族や組織の

一夫一婦制は進化の賜物か?

前回に引き続き、愛とは何か?をテーマに書き綴ってみたい。 人間、つまりホモ・サピエンスの社会では比較的一夫一婦制が大勢を占めている。 もちろん、国によっては一夫多妻制を社会制度としているところもあるし、一婦多夫制の社会もある。 一夫多妻制の国が多いのはアフリカ諸国。ブルキナファソ、マリ、セネガル、ナイジェリア、コートジボワール、ガーナ、モーリタニアなど。 また、少数ではあるが一婦多夫制はインドのトダ族や、同じくインド・ケララ州の領主身分カーストのナヤール、他にはチベット人、ポリネシアのマルケサス島人、スリランカのシンハラ人などの一部の民族に見られる。 ヒトだけでなく、チンパンジーやゴリラなどの類人猿はどうだろうか? ゴリラは一夫多妻制であるらしい。この場合、オスにとっては複数のメスと子供を養うために相当量の餌をメスたちに分け与えねばならない。 なぜなら、子育て中のメスは餌を取りにいけない可能性がある。 そうなると、オスの立場からすると自らを身の危険に晒すことにもなりかねないのだ。 余程、自分たちの環境に豊富な食料が手軽に手に入らなければ、一夫